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★皆さまへ    2020年9月25日

 今年の夏も慰霊登山をしてきました。

 時代はかわっても、姉から引き継いだ陶器やカバンなどが生活の中にまだまだたくさんあり、もし姉が生きていたら楽しみや悩みを分かち合えたのにと、今もずっと残念な気持ちを変わらず持ち続けています。

 本来ならオリンピックが行われる予定だった今年、コロナ禍で工夫をして新しい方法での慰霊となりました。昨年の台風19号により大きく道路が削られ、登山道や登山口までの村道が大きく被害を受けましたが、登山道も工事現場の足場で作られた仮設の登山道や階段ができており、被害の甚大さと困難さがわかりました。今年は35周年という節目でもあると遺族優先に丁寧なご支援を頂きました。新型コロナ対応で密にならないように分散し、7月にも支援日を設定して、慰霊式をYouTubeで中継してくださいました。

 今年は登山中に突然の雨にあって、かなり激しい降り方で恐怖を感じましたが、すぐに支援の方が探してくださり助けてくださったおかげでほっとし、無事に登山が出来ました。上野村の方々も復旧に力を尽くして頂き、関係者の皆様には心から感謝いたします。

 事故を風化させることなく、安全な公共交通を守っていくために後世に伝えていくことが事故で亡くなった被災者の供養になると思ってきました。当然、今もそうです。その気持ちにかわりはありません。

 青山透子氏による著書を読み、この事故の原因は圧力隔壁の分裂ではなく隠された事実があり、実は未解決事件だと初めて知りました。

これは、公文書を開示してもう一度解析する必要がある、そう私も思います。そして相模湾から機体の残骸を引き上げて調査すべきだと思います。

青山氏はその深い知識、幅広い人脈、語学力から問題の解析をすすめてきました。

 35年前の事故ですが、今からでも間に合います。事実をあきらかにすべきだと思います。まだ終わっていないと思います。

(注意

<残念ながらこの方に副会長をお願いしましたが、ご本人の名前が出たとたん当会に対して音信不通となりました。心配していたところ、日航内部者からの連絡では、裁判対策として懐柔作戦者の名簿に名前が出ていたとのことでした。信頼していましたのに、大変残念な限りです 吉備>

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★ 御巣鷹の尾根に消えた教え子を想う  2020年10月6日

 御巣鷹の尾根で亡くなった教え子のY子さんと初めて出会ったのは、もう50数年も昔のことになります。私は大学を卒業してすぐに川崎市の小学校に赴任し、2年生のクラスを担任しました。そのなかに目のくりくりした可愛いがんばり屋のY子さんがいたのです。新米教師の私は、とにかく夢中になって子ども達と取っ組み合っていた毎日だったように思います。その頃、私の自宅に遊びに来た子ども達を夕方駅まで送る道すがら、Y子さんと手を繋いで歩いたことを今でも懐かしく思い出すことがあります。

 Y子さんは高校を卒業していったんは銀行に勤めたのですが、どうしても小さい頃からの夢だった憧れのスチュワーデスになりたくて、日本航空に就職しました。初めは国際線に乗務していたのですが、結婚して国内線に変更になった直後、偶然にもあの日航123便に乗務していて事故に遭ってしまったのです。

事故当時、私はモスクワ日本人学校に勤務していたので、詳しい情報は知る由もありませんでした。任期を終えて帰国した直後、Y子さんが日航123便に乗務しており、新婚早々の25歳の若さで御巣鷹の尾根で帰らぬ人となったことを初めて知り、大きな衝撃を受けたものでした。

 小学校を定年退職をした後、私はたまたまご縁があり日本航空の教育相談員とし勤務することになり、子弟を帯同して海外へ赴任する社員家族のサポートをする仕事を7年間担当しました。この間、日航社員によるボランティア清掃登山に参加し、墜落現場の群馬県上野村を訪れることができ、悲しみを新たにすることとなりました。前からいちど御巣鷹の尾根に登ってみたいとひそかに思っていただけに、事故から20年という節目の年にようやく念願を叶えることができたのです。昇魂之碑の前でお線香をあげながら、志半ばで逝ったY子さんの無念を思い、こぼれる涙をどうすることもできませんでした。

 2年前、偶然青山透子氏の著書を読んだことがきっかけで、真相を明らかにする会に加えていただくことになりました。Y子さんの妹さんが副会長を引き受けて下さったことは、私にとっても大変嬉しいことでした。

 教え子の死、しかも初めて担任した子どもの死ほど、教師として悲しいことはありません。あの日から35年を経過した今、決して風化させることなく、真実が明らかになるよう力を合わせることが、担任として教え子Y子さんへのせめても手向けになるのではないかという思いを強くする昨今です。

  (日航123便客室乗務員Y.S.さんを偲んで S.W)

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★ 荒井達夫千葉経済大学特任教授の政治学授業から  2020年10月30日

  正会員である荒井教授のプロフィールをご紹介します。(千葉経済大学ホームページより抜粋)

人事院給与局・職員局事務官、参議院法制局参事、参議院労働委員会調査員、参議院総務委員会・行政監視委員会次席調査員(各省課長級)、参議院憲法審査会首席調査員(各省審議官級)、信州大学非常勤講師。千葉経済大学に公募採用。

荒井達夫教授が政治学の授業で日航123便墜落事件に関する問題について、政治学の観点から授業で取り上げて下さいましたのでご報告します。以下、荒井教授からのメールの一部です。

 

「コロナウィルス対策をとった大教室での対面授業でしたが、受講生数人に感想を述べていただきました。
当初はびっくりして「都市伝説?」と言う者もいましたが、「真面目に資料を読むと、とんでもないことが起きている」「すごく怖い」「明らかに未解決の事件」「国の法的責任は重大」「忘れ去られてはならない」「ご遺族のことを思もうと涙が出る」等、学生の反応は非常に素直です。

後に家族で話題になり、「人命救助に時間がかかり過ぎて、初めから何か変だと思っていた」との両親の話を伝えてくれた学生も出ております。」

彼らが生まれる前のこの重大事件を知り、都市伝説でも陰謀論でもなく、事実を事実として当たり前に受け止めることこそが、冷静で客観的な思考を熟成する土台となるでしょう。この学びを必ず未来に活かしてほしいと思います。荒井先生有難うございました。

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★   三人の姪を亡くしたご遺族からのメッセージ  2020年11月13日

『科学的とは』

  この11月の9日、兄を老健施設に託した。91歳。今まで支えてきた義姉も4回目の入院手術中である。御巣鷹に行くのを生きがいにしてきた二人には、「頑張って登ろうよ」と促しても、もうその「意志」を置き忘れた二人になった。 

 三人の娘たちは、ただ彷徨うほかは、ない。

 「怨讐の彼方に」とは行かない。例え50回忌が来ても。

 もし私の子が三人、あのような目に遭ったとしたら、私はその後の私が想像できない。だからまだ「どこにいるか、何しているか」判っていたころの兄が、メデイアのマイクに四方に気配りしながら語っていたことが理解できない。

 兄夫婦は、いずれこのまま、声なくこの世を去って行くだろう。

 でも、あの雲間で五人「やー!やー!」と手を取り合うとは 想像できない。

 

 私たちは何を置き忘れてきたのだろう。

 私は「事故調」のあの黄色い「航空事故調査報告書」を見たときから、違和感を覚えた。素人であるが故に。知りたいことが、半ページでスルーされていたり、項目建てのみ微細にわたるものの、大部は金属組織説明に要していたり、およそ結論ありきの「原因 8行 説明」であったが故に。

 それ故、35年経って6年経っても 今もって得心が行かない。私は今まで ただ兄等の御巣鷹行をフォローし、老老生活をフォローすることで良しとしてきた。兄の世界には踏み込めないと。

 

 私の自分へのまやかし。それは、「遺族の人たちのこと」とする、歴史の彼方へ 100年の彼方への矮小化と同じ。

 日本人は、日本はそれで 良いのだろうか。

 水に流し、時の流れに身を任し、日々 あすの生活を掴むことを考えておれば可なのだろうか。

 コメット機の墜落原因が判らなかった時、イギリスの当事者は、海を浚い、組み立て、再現してプールに漬け、パイロットを脱出させながら、実機を飛ばして原因を掴んだ。

日航123便も「隔壁が損壊し、操縦機能が喪失した」のなら、実験すべきである。まず地上で。不十分であれば脱出装置つけて、海上上空で。

 

 「科学的とは、仮説を立て、実験で証明して、初めて 成り立つ」と中学時代教わった。日本が文明のある、科学の国であるならば、事故調の仮説を実験すべきである。日本の科学者も分野を問わず その姿勢を求むべきである。日本の科学のプライドの為にも。 

 もし、必要無いのならば、その訳を教えて欲しい。

 

 何も無い、手ぶらでは、私が死んでも、姪たちに合わせる顔がない。 

   『この世は 事実で 出来ている。べきである。』

 娘たちに科学万博を薦めたのを、常に悔やんでいた兄は・・・

 本当は そう 叫びたかったのかも しれない。

 

                          奈良県 田淵 友一

(兄の田淵親吾さん輝子さん夫婦の3人の娘さんである姪の田淵陽子さん(享年24歳)、満さん(享年19歳)、純子さん(享年14歳)を亡くす。あの日、ちょうど茨城県の筑波で開かれていた国際科学技術博覧会・通称つくば博Tsukuba Expo '85を見学に行った帰り日航123便に搭乗して亡くなった)

★なお、田淵友一氏からのもう一通の手紙を紹介します。

題名 『ビーコン』

     注)無指向性無線標識(NDB:nondirectional radio beacon)

 私が住む奈良県の信貴山の尾根筋を横切って平城京から難波の都へ通う奈良時代の官道が今年『日本遺産』に認定された。『龍田古道』という。

その道すがらに古代龍田大社の風神が降臨したと伝承される「御座ヶ峰」がある。その眺望のよいところに飛行機を大阪伊丹空港にいざなう「ビーコン」と呼ばれるものがある。

  娘を失った姉がずっと「お姉ちゃんたちは きっと帰ってくる!」と、

 毎日夕方7時家のベランダから呼んでいた・・・

 それらの飛行機が 大阪平野に入る 基点のビーコン。

 何事も無かったように、いまも東からの飛行機が高度を下げながらフラップを降ろしてエンジンを吹かして轟音をひびかせる。

 飛行機の胴体が震い、まるで苦しんでいるようなその音が聴こえる時・・・

 それはかって姉が、娘たちを失った辛さからたまらずお酒に溺れ、人目も構わず、そのたびに叫んでいた、その声のように・・・今も 聴こえる。  田淵 

(注意)

<残念ながらこの田淵さんも、ご本人の名前が出たとたん当会に対して音信不通となりました。心配していたところ、日航内部者からの連絡では、裁判対策として懐柔作戦者の名簿に名前が出ていたとのことでした。信頼していましたのに、大変残念な限りです 吉備>

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★★★ 会員及びこのホームページに寄せられたメッセージについて★★★
 吉備素子会長より、このホームページを訪問して下さったネット会員の皆様へ
「心温まるメッセージと強い信念を感じさせる皆様の言葉に深く感動いたしました。
もっともっと私ら遺族がしなければならないことがたくさんある。そう実感しました。本当に有難うございます。100名以上の方々からのメッセージの一部ですが、ここでその感動を共有したいと思います。より一層のご支援をどうぞよろしくお願いいたします。」
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◎ 「教え子の客室乗務員を想う」に寄せられた声の紹介

 私は、昨年の10月に本会のホームページに「御巣鷹の尾根に消えた教え子を想う」という一文を掲載させていただきました。その折り、私の知人や友人からの反響が多く寄せられましたので、今回その内の一部を紹介したいと思います。

 「先生の初めて担任したお子さんがその便の客室乗務員として乗られていたのですね。先生の追悼文を読ませていただきました。最初の教え子が25歳の若さ、それも新婚直後に亡くなられたことは、大きなショックだったことと思います。先生の書かれた文章から、その思いが伝わってきます。未だに真の原因は不明なのですね。」

「日航機123便の事故については、私もまだ小学生の時分の出来事でもあり、詳細は記憶から薄れていましたが、今回再認識いたしました。初めて担任として受け持たれたクラスの教え子が、新婚早々と本来ならとても幸せな時に25歳の若さで、何とも言葉にしがたい本当に悲しい事故だと胸が締め付けられました。今も太平洋の海底に眠る垂直尾翼の引き上げが今後実現し、事故の真相が解明されることで、ご遺族や関係者の皆さんの悲しみと無念が少しでも晴れる日が来ることを願っています。」

 このように寄せられたメールを読みながら、確実に私たちの取り組みの輪が広がってきていることを強く実感させられています。新しい年、これまでの歩みの上に立ってさらに着実に前進できるよう、微力ではありますが私も真実を発掘するために協力させていただきたいと願っています。   S.W.

一般賛同者の皆様からのメッセージ********* 2020年7月~12月

(一部抜粋掲載)

message: この事件に関して、ずっと関心を持っております。 始まりは、私の飛行機嫌いでした。 なぜ墜落したのかを本当の原因を調べ始めたのが始まりです。 まったくもって許される話ではない。 何が何でも真相を明らかにさせなければならない! この手の意見書き込みを少ししただけで、 私ですら誹謗中傷が凄いです。 そんな事に負けてられない。 私には陰ながら応援する事しかできませんが、 この度のホームページ開設、 本当におめでとうございます。 Y.S.

 

message: 公式ホームページの開設おめでとうございます。昨年の早稲田大学でのシンポジウムに参加することが出来ず大変残念に思っていました。今迄青山さんの活動に賛同し著書は全部読ませていただきました。出版社経由で青山様に手紙をお送りして来ましたが、このホームページの開設で青山様、会員の皆様とコンタクトができいろいろ情報を得ることが可能となることを期待しております。どうか宜しくお願い致します。R.S.

 

message: まず御遺族吉備様、青山透子様はじめ全ての会の皆様に連帯の挨拶を申しあげます。 私はスペイン在住ながら電子書籍で青山さんの著書を読み衝撃を受け、この半年ほどずっとネットで情報と知識をつけておりました。 また英国在住のスウザンさんともTwitterで最近繋がり、何度か連絡をとらせて頂きました。 私は50代男性ですが高校大学の時に政治に不信感を抱き、まさにその時からの日本の権力の闇の頂点にいたのが中曽根でした。 35年が経ち若い時の純粋な怒りが再度沸き上がり、何か出来ることをしたいと考える次第です。 腐りきった日本の社会に一筋の光を落ち込むべく御遺族及び皆様の御尽力に敬意を表し、私も自分が何かできるかを考えて行きたいです。 S.T.

message: 必ず目的達成してください。 何も出来ない自分が歯痒く思います。 自分がこの事故(事件)の疑惑を知ったのがつい最近で、今まで何やってたんだ…と、知ってからはネットですがいろいろな方の話を調べまくりました。 やはりテレビ新聞等では事故として取り上げれば、「事故だったんだ」と決めつけてしまい、テレビ等が言う事が100%事実と思ってしまう…。 特に日本人は、そうだと感じます。 これはとても恐ろしい事だと思います。 自分が知ってから知人や目上のオバサンやらに話ました。 ところがビックリはするものの、テレビで流れない情報にはなかなか信じようとしない、もっと言えば考えようともしない、結局『自分事』にならない事は考えない、ような感じでちょっと悔しいし、平和ボケにもほどがあるように感じます。 この国の人間は、いくらでも情報操作で操れる状態なんだと、情けなく感じました(泣)。 どんな事にしろ、隠蔽する、それがまかり通している事には日本全体で怒り、追及しないといけないです。そんな人間が国会にいてはいけないし、企業の幹部にいてもいけない。いれば辞めてもらうしかありません。 いち早く真っ当なマスコミの人間らも動き、日本全体で追及して真実を明らかになる事を願います。 知ってからは毎晩考えますよ。 本当頑張って下さい、絶対解明して下さい! Nより

message: 大学4年生になった時に就職課に提出した進路希望調書の第一希望に「日本航空」と記入したことを今でも鮮明に覚えています。昭和59年の春のことです。それから1年あまりたって、あの忘れもしない、そう35年の時が経過しても脳裏に焼き付いているあの日のこと。 日本航空に入社することなく、外資系メーカーに人事マンとして入社した一年目の夏の日、定時で帰宅し夕食を終えて、NHKの夜7時のニュースを観ていると、「日航機123便大阪行の機影がレーダーから消えたというニュース速報」。あの瞬間のことが35年後の今も忘れられません。 その後、ときも流れ海外営業職に転職。年間の半分を海外で過ごす日々、航空機利用回数は数百回を超えていると思います。 ただ、いまだにキャビンに足を踏み入れるたびに、あの日航機のことが脳裏をかすめます。「自分は今回も無事に帰宅できるんだろうか」と。それぐらい僕らの世代にとっては強烈なインパクトを残した事件といっても過言ではないと思います。 半ば創作ではありますが、膨大な取材を重ねて出版された山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」を読んだときに、どこまで腐りきった組織なんだ!そんな会社を第一志望にしていた自分を恥じた瞬間でした。 以来、日航は一切利用せず、他社便を利用する日々です。 そもそも、この事故、いや事件と呼んだほうが正確かもしれませんが、あまりに隠蔽の匂いが強く、いまだに政府は真実を覆い隠していると感じているのは私だけでしょうか。 当時から、不可解な点が多過ぎると多くの識者や専門家の方々が疑問を投げかけていましたね。 とりわけ私が理解不能なのが、つい先ごろ相模湾で発見された123便の尾翼の引き上げをなぜ実施しないのか?マスメディアも沈黙。 何か引き上げに不都合があるのではないかと勘ぐらざるを得ない政府の対応。仮に偽りの話を政府は35年間、国民にしてきたとしても、そろそろどんな不都合があろうとも真実を国民に開示すべき時期ではないのでしょうか? 一介のビジネスマンの私がとやかく言ったところで、事態は進展するはずもないと思いますが、真実を解明することに微力ではあっても力になることが僕ら国民の勤めでもあるのではないかと感じる35年目の今日この頃です。

K.K.

message: 真相究明に向けて共に頑張りましょう。私は今、オリバーストーンとピーターカズニック共著のもうひとつのアメリカ史を読んで衝撃を受けてます。戦後の秘められたアメリカ史と日米関係の中から、日航123便事件の真相を解き明かす手がかりを得たいと思い、生徒たちと勉強しています。 もちろん青山さんの著作は、常に参考にさせてもらうとともに教育活動に生かしています。 今後ともよろしくお願いいたします。S.S.

message: はじめまして。私は横浜市在住の46歳男性、会社員をしています。 私も1985 年当時、毎年お盆休みに、父親の故郷鹿児島県に帰省する為に、羽田から日航機にはよく 搭乗した記憶があります。その当時、もしかしたら、青山さんや、亡くなったスチュワーデスの方々やパイロットの方々、生存者の落合さんにお会いしていたかもしれません。今でも覚えているのは、機内でプラモデルを頂いた記憶です。あの当時、私と同じ年齢だった男の子や女の子達が無念の死を遂げていると思うといたたまれません。だからこそ、私も今に至るまで色々と原因究明に奔走してきましたがままならないまま時が過ぎて行きました。そんなん時、ふと立ち寄った書店で目を惹きつけた一冊が青山さんの書籍でした。 早速購入し自宅で無我夢中に読んで鳥肌が全身に立ったのと、怒りが沸々と煮えたぎる感情になったのを覚えています。今では全冊購入し熟読しております。実は私、青山さんの書籍に会ってから毎年、御巣鷹の尾根に登っています。遺族としてではなく、事件解決を願って、無念の死を遂げた521名の天空に旅立ってしまった魂を慰霊するために。今年も台風被害の爪痕が残る御巣鷹の尾根に登っています。私は毎回、目を血眼にしながら登山口から鎮魂の碑までの道中、機体の残骸や遺品なる証拠品がないか意識しながら登っています。以前、頂上☓岩付近で、恐らく外国籍の乗客が書いたと思われる、紙切れを見つけました。そこには、ペンでKyrie eleison.と書かれていました。 墜落間際に必死になって神に祈っていたのでしょう。それを手にした私は、その場で人目もはばからずに泣きました。青山さんにもしお会いできた時に渡そうと思います。遺族の手に渡る事を切に願って。K.K.

message:私は元日本航空の整備士で、りんご農家の三男として生まれました。
父は力のある黒い牛で田んぼを耕し、その牛の背中には私がまたがっていました。
のどかな田園風景が瞼に浮かびます。
市内の工業高校に自転車で片道15キロを通学していました。高校3年になりJALから整備士の募集が来ているとクラスメートから話し掛けられました。
まあだめもとでJALを受験。まぐれで受かりました。
18歳で東京に出た私にとって、毎日がお祭りのような大都会で夢のような街でした。
JAL整備士としての最初の1年は、整備訓練生として昔のセスナぐらいの整備から始まり、その後DC-8型機の1号機にへばりついて、あちこちバラバラに分解しては組み立てる特訓が続きました。当時のJALは定時出発率が高かったため、のーんびり整備していると怒られたことを記憶しています。
やがて、1年が経ち現場配属になりました。
最初は羽田空港のライン整備工場で客室整備。次に電装整備。
次に約1年で羽田空港のオーバーホール工場に配属。機体をバラバラにして、胴体だけになるまでオーバーホールを繰り返していました。
この時代は、DC-8型機、B-727型機、B-747型機、DC-10型機などが主流でした。
オーバーホールなので機体構造も丸見えでした。
もし、機体にサビがあると、そこから腐食、ひび割れ、破損と進むので、錆び取りの作業は毎日のようにありました。ここでは機体構造が如何に重要で大事かについて考えさせられました。
オーバーホールは3年で卒業し、成田空港が開港するとのことで成田に転勤になりました。
成田ではライン整備の電装整備が担当で、コックピットの計器や様々な無線機やコンピュータ類の整備でした。
なお、私はいろいろなことを提案することが好きでしたので、客室の天井にある荷物棚の天板にある鏡(忘れ物などを点検する)も私のアイデアでした。
また、今どのあたりを飛んでいるか、ひと目でわかるテレビが客室の各座席にあると良いと思っていましたが、実用化はアメリカのエアショーと言う会社が実現しました。
成田空港では、24時間体制で、てんてこ舞いで整備していましたが、大変やりがいもありました。

1985年の123便墜落当時は、整備本部検査部内にある故障情報を分類して信頼性向上をはかる情報管理者を担当していました。
あの日、8月12日夕方に何となくひどく胸騒ぎが異常にしました。
会社の寮に帰るとJAL機が消息不明とのニュース。
自家用車で群馬まで助けに行こうかとも思いました。

あれほど安全性の高いB-747が何故?
テロか?あるいは撃墜された?
故障情報管理者を担当していた私には腑に落ちない事故でした。

事故後、故障情報は世界中をオンラインネットで結ばれ、どこの日航支店でも故障情報が画面上で見られるようになり、過去3年分はリアルタイムで全機が見れるようになりました。
エンジンについても、それぞれ故障情報が手に取るようにわかり、エンジンオイルの化学的分析もグラフで見ることが出来ます。

やがて私は、成田空港にあるJAL装備工場に配置となりました。航空機の様々な電装部品や油圧や気圧部品を修理する工場です。ここは土日祝日休みで日勤のみなので24時間体制からやっと抜けられて、うれしかったことを覚えています。
実は、ここではボイスレコーダーやフライトレコーダーも担当しました。

航空機事故の本も自費で買い、JAL123便墜落の記事も載っていましたが、この便の出発を担当した整備士が自殺したとも書いてあり、大変心を痛めました。そこで御巣鷹の尾根には3度ほど慰霊登山に行きました。

どうして墜落したのか、不審な点がいくつかあります。
圧力隔壁の修理ミス……。羽田空港に保管してある123便の圧力隔壁も30年ぐらい前に一度だけ見ました。私のうるおぼえですが。圧力隔壁は細長い扇型のジュラルミンを何枚も合わせたドーム型になっており、そのジュラルミンのつなぎ目はリベットでとめてあります。より一層、強力なつなぎ目にするためにリベットは2列に打ってあります。事故機はつなぎ目のリベット1列分だけのジュラルミンを切り抜いて、また再度その切り抜いた細長いジュラルミンを元に戻して1列にリベットを打ってあったように見れました、これにより強度不足になり金融疲労により破断したということのようです。
あのボーイング社がこのような修理ミスするかと少し理解し難いです。 また、ボイスレコーダーを担当した者として、約32分間の磁気テープに記録されたコックピットの音ですが、今ではDVDやユーチューブに123便のコックピットの音が出ていますが、あれほど緊迫した32分なのに、無音が殆どです。たまに、頭あげ!頭下げ!が聞こえるだけです。
非常用の無線周波数121.5MHzで様々な地上局や、一緒に飛行していたとおもわれる自衛隊機との交信などが声と重なりあって、かなり頻繁に録音されているはずですし、不自然すぎます。
事故当時の首相は中曽根康弘首相でしたが、既にあの世に行かれています。
NHKでは、昔の航空機事故を再現したドキュメントを出していたようですので、私はNHKのご意見サイトに123便墜落のドキュメントをやるようにと意見を出しました。35年以上も経ち、ドキュメントになりやすいかもしれません。
政府にもご意見受付サイトがありますので、ありとあらゆる手段を使い真相を突き止めていきましょう。
話は変わりますが……。
私が昔、秋田県の合川町にトライアスロンに行った時に丸八寿司という大変旨い寿司屋がありましたので、その時のお話を付け加えます。
初老の板前さんはその昔、東京築地で寿司屋をやっていたそうですから、築地からネタが入るそうで旨い寿司屋でした。
「なぜ丸八寿司と言うのですか?」と聞いたところ、『世の中なんでも、まあるく治めるのが肝心だから丸八寿司なのだよ』との答えでした。
丸くおさめるか……。
この日航123便墜落事故を事件にするにはかなりの力が必要だと思います。
日本や世界中のみなさんから、これは妥当な見解だと理解されるように、上手く事を進めたいものです。
それにはひとりでも多く共感して私達に寄り添って貰えるように、理解されやすい説明や事実の検証が大切だと思います。
幸いにも青山透子さんの5冊の本があります。
これらがより多くの方々に読まれて共感してもらえるとよいです。
青山さんの本を広く宣伝しましょう。
私は現在の勤め先の理事長に青山さんの本を見せましたが、びっくりしていました。
また、近くの図書館にも「圧力隔壁説をくつがえす」を新しく購入してもらうように申請して受け付けられました。政府のご意見サイトにも、この会から、上手くまとめたメールを送りたいものです。メールは政府と関係省庁に届くそうですし、皆さんと一緒に、なんでもやってみたいと思います。明らかになるまでがんばりましょう。
H.M.

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